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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区下馬4-27-26

 駒繁神社
祭神 大国主命 昔から「子の神」といわれ、出雲大社の分霊を守護神として祀る。天喜4年(1056)源頼義、義家父子が奥州征伐の際その武運を祈ったと伝えられている。
その後、文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原氏の征伐のおり、祖先義家が参拝したことをしのび、愛馬芦毛を境内の松の木につないで参拝したとのいい伝えから、明治以後駒繋神社と称するようになった。
 昭和54年(1979)3月 世田谷区教育委員会





御社号
 昔より「子の神」「子の明神」又は「駒繋神社」とも称えられていましが、明治以降は正式には「駒繋神社」と呼ばれるようになりました。しかし今までもなお昔の名称で「子の神」と広く呼ばれています。
・御祭神 
 御祭神は大国主命(御■■■)、大物主命、大国王命、大巳■■であります命は素盞鳴■■御子として古事記、日本書紀、出雲風土記等によれば因幡の白兎少彦命との国作りの話、国譲りの物語でよく知られている神様であります。大国主の御名の意味は「おゝ(大)な(土地)むち(霊)」即ち大きな土地の守護神、国土の主領神を意味しています。御祭神は慈愛深く人々に療病の方を教えられ、殖産興業畜産の奨励など一般国民の福利増進等に専念された御神徳あらたかな神様であります。
・御由緒及び此地の沿革 
 今から約900年程の昔、平安時代後期御冷泉天皇の天喜4年(1056)4月源義家公が父頼義公と共に朝廷の命を受け奥州に向う途中この土地を通過する際子の神に祈願参拝したと伝えられているから少なくもこれ以前に里人達によって出雲大社の御分霊をを勧請し守護神として祀った事はあきらかであります。降って文治5年(1189)7月源頼朝公が奥州征伐のため鎌倉を発し世田谷郷のこの地に至ったとき往時祖先義家公が当社に参拝したのを回想し、愛馬芦毛より降りて駒を繋いで(駒繋の松)を拝したこの事があって以来頼朝公が鎌倉に幕府を開き威勢の盛んなるに従って子の神を駒繋神社とも称するようになったと伝えられています。頼朝公はそれより乗馬し発進しようとしたが当社前より世田谷区上馬町までは一面のぬかるみであったので下馬しこの間を徒歩で渡りそのより先は乗馬(上馬)した。後世この故事にちなみ駒繋神社一帯を下馬と云い、乗馬した地を上馬と呼んで現在に至っています。以上は社伝、種々の著書を参照し記しました。
 尚、古老の伝承及び、江戸名所図絵、新編武蔵風土記、等によってこの地の沿革を記せば次の如くであります。文治年間頼朝公が奥州征伐の時荏原野より芦毛の馬を撰んで子の神に奉納しようとしてこの地に牽いたが躓いて倒れたので止めたと伝え、或はまた頼朝公がこの地に狩りに来た時愛馬が頗りに驚き誤って沢に落ち死んでしまった。そこで塚を築きこれを足毛塚と呼んだとも伝えられる。(この塚は神社の近くに現存している)これらを総合すると駒繋神社(子の神)は東京では名社の一つである事がよくわかります。




 駒繁神社には『大脇月甫歌碑』、『日露戦没記念碑』、『三代目 駒繁の松』、『下馬土地区割整理記念碑』、『「陸稲の藤蔵糯」説明板』があります。
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