東京都世田谷区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 < 銘文 > (正面)左相州通 大山道 (左正面)右富士 世田谷 登戸 道
(背面)天下太平国土安穏 寛延二年(己巳)建立 石工 江戸本材木町八丁目 石田屋■■■(花押) 文化九年(壬申)■(再力)建 五穀成就萬民家樂 (右側面)此方 二子通 <年代> 寛永2年(1749年)、文化9年(1812年)再建 <伝来> 大山道は、矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(大寒屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった右橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。 大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。 この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡幅などにより点々と移されたが、昭和58年(1983年)5月に三軒茶屋町会結成50周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。 <備考> 一、この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。 一、相州通・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。 一、富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。 昭和59年(1984年)3月 世田谷区教育委員会
PR
所在地 世田谷区若林4-35-1
吉田松蔭先生は天保元年(1830年)8月4日長門の国(山口県)萩において、藩士杉百合之助常道の次男として生れる。 不踏死比不能成善士 (男というものは、死ぬとわかっていても、殺されるとわかっていても、せねばならぬ)
と掛け軸(細木和子氏所有 2007年現在)に書き残す。
親思ふ こころにまさる 親心 長州藩の志士吉田松陰が幕府の弾圧「安政の大獄(1858~1859)」に連座し、江戸伝馬町の獄中で処刑されたのは、安政6年(1859年)10月27日のことでした。吉田松陰は死に際し、
身はたとひ 武蔵野の野辺に 朽ちぬとも
と詠みました。自分の肉体は亡んでも、志だけはこの世に留めておくのだという、凄まじい決意を込め、30歳の若さで散ったのです。
<御祭神> 贈正四位、吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰) <例祭日> 春、4月27日 秋、10月27日 <神社創建> 明治15年(1882年)11月21日、元府社に列す。
<墓所> 前述の如く境内には、吉田松陰先生の墓碑を始め、安政の大獄(1858~1859)に連坐した烈士の墓碑がある。 <石燈籠> 境内には旧藩主毛利元昭公を始め、吉田松陰先生門下の木戸孝允、乃木希典、山形有朋等より奉献された三十二基の御影石の燈籠がある。その塔柱に刻されている文字は書家高田竹山の八分隷書体である。
所在地 世田谷区若林4-35-1 (松陰神社)
所在地 世田谷区若林4-35-1 (松陰神社) 文化5年(1808年)~安政6年(1859年) 諱は良典、民部權大輔、鷹司家々士。尊皇攘夷の志深く、安政の大獄(1858~1859)に連坐して獄死。小塚原回向院より改葬。享年52歳。
所在地 世田谷区若林4-35-1 (松陰神社) 文政12年(1829年)~文久2年(1862年) 長州藩士。尊皇攘夷を唱え横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を戒しめられ切腹。芝青松寺より改葬。享年34歳。
所在地 世田谷区若林4-35-1 (松陰神社) 文政8年(1825年)~安政6年(1859年) 儒者、本姓は橘、頼山陽の三男。尊王の大義を唱え安政の大獄(1858~1859)により刑死。小塚原回向院より改葬。享年35歳。
所在地 世田谷区若林4-35-1 (松陰神社)
禁門の変(1864年)の際、幕府によって破壊された吉田松蔭先生墓所を明治元年(1868年)木戸孝允等が修復した。
所在地 世田谷区若林4-35 (松陰神社霊域)
弘化4年(1847年)山口県萩に生る。
所在地 世田谷区若林4-35-1 (松陰神社) 徳富蘇峰(本名 猪一郎、徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本洋学校をへて、同志社に学ぶ。政治的には桂太郎と密接な関係を持った。明治41年(1966年)自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない碑を建立した。 所在地 世田谷区若林4-34
所在地 世田谷区若林4-35-1 (松陰神社) 天保13年(1842年)~明治42年(1909年)
吉田松陰の松下村塾に入門、次第に尊皇攘夷に傾倒していき、志士となる。その後、兄 入江九一が老中 間部詮勝暗殺を計画したとき、それに協力、未遂にて兄と共に投獄される。その後、釈放されるが、1862年にはイギリス公使館焼き討ちに参加する。 所在地 世田谷区北沢2-14-1 庚申堂の由来 干支の庚申の日に夜を守って禁忌行事を中心とする進行で起源は中国の道教にあるとされ、日本に伝来したのは平安朝以前といわれている。そのために禁忌を道教で守庚申といったが日本に伝わって独特な変化をみせて庚申さまという信仰対象を祭って礼拝するようになったのである。 昔一族の繁栄と旅人の安泰を祈願し各部落の辻々に建立されたもので道しるべにもなっていたのである。 昭和49年(1974)4月吉日 所在地 世田谷区代沢2-32-2 国登録文化財 日本基督教団富士見丘教会 富士見丘教会は、日本組合基督教会に属する教会として昭和11年(1936)に献堂され、昭和12年(1937)11月12日に認可、正式に設立された。当初の教会員は、神田淡路町で礼拝を守っていた信愛教会の有志十数名、及び番町教会の有志十数名が中心であり、そのころ大阪から上京して伝道を開始していた山本忠美牧師の下で合流して教会新設を計画し、昭和10年(1935)9月、現在地に会堂建設することを決定した。 当時、周辺は住宅地として開発途上にあり、富士山も良く眺望できた。敷地選定にあたっては、下北沢という地の利と将来性が評価されたこと、教会員の郊外居住化に伴い、その利便性を考慮したと考えられる。建築計画は教会員の加藤俊一氏が行い、昭和11年(1936)10月14日に完成した。建築費用は教会員の負担のほかに、事業活動等でまかなわれた。山本牧師は教会に程近い現代田6丁目の教会員宅の隣に居住したが、この教会員の住宅も現存しており、平成12年(2000)には国登録文化財となっている。 教会堂の外壁は当初はクリーム色で塗装され、屋根については下屋部分(側廊)が天然スレート葺きで、本堂の屋根は瓦棒葺きであった。昭和28年(1953)には2代目東方信吉牧師の手によって愛児園が開設され、この幼稚園舎として使用するため玄関脇にトイレ部分を増築し、またその後老朽化のため幾度か修理されているが、平成14年(2002)の改宗の際には間取りを一部復元した。木造2階建、切妻造で、棟の主体部南西に塔屋を付属する。 現在外壁は創建時に合せてモルタルにクリーム色の吹付け塗装を施し、屋根は緑青色のカラー銅板で葺いている。礼拝堂は中央を広く取り、東奥に聖壇を構え、その両脇に尖塔アーチ形のステンドグラス窓を配する。前失2階は聖歌隊席であった。 全体にプロテスタント教会堂らしく質素平明な意匠であるが、外部のバラ窓風レリーフや、城郭を想起させる塔の鋸壁、内部のトラス小屋など、要所を飾っている。特に堂内に約3メートル間隔で入る5つのトラス小屋技法は、明治から大正時代にかけて多くの建築物に採用されてきたハンマービーム架構に平行弦トラスを組み合わせたもので、我が国の洋小屋技法の研究上、貴重である。 平成16年(2004)2月 世田谷区教育委員会 所在地 世田谷区代沢3-27-1 江戸時代の初め、徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立されました。建物に三葉葵の紋所が見られます。また境内には、樹齢400年のイチョウが一対と、お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社があります。このあたり一帯は緑深い木々に包まれて落ち着けます。 本堂 淡島堂 弁財天 不動堂・閻魔堂 境内には『針塚』があります。 所在地 世田谷区代沢3-27-1 (森巌寺) 世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習) 森巌寺の針供養 針供養とは2月8日や12月8日、あるいは両日ともに裁縫の仕事を休み、折れ針や古針を供養する行事のことをいう。現在、森巌寺の針供養は毎年2月8日に淡島堂で行われている。堂内に置かれた豆腐に古針が刺され、住職らによって供養の法要が営まれる。供養された針は豆腐より抜き取られ、淡島堂正面にある石棺に納められる。 森巌寺における針供養の創始は不詳であるが、安政3年(1856)刊行の『狂歌江戸名所図会』には同寺の針供養に関連した狂歌が詠まれており、遅くとも安政期にはこの地で針供養が行われており、その施灸と共にかなりの程度著名であったと思われる。 まかり(曲り)たる針も納る淡しまハ 人をつりこむ御夢相の灸 淡しまに灸をそすうる女等の 針さす癪もをさまりにけり (「治まる」「納める」を懸ける) 森巌寺の針供養は、かつては広く見られた民間信仰の風潮と、道具を大切に扱った先人達の思想をいまに伝えるものとして貴重な存在である。 平成12年(2000)1月 世田谷区教育委員会 所在地 世田谷区代沢3-25-3 北澤八幡神社 本殿 御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后 仁徳天皇 例大祭 九月第一土・日曜日 社殿 本殿 祝詞殿 内拝殿 外拝殿(鉄筋コンクリート造) 神楽殿 境内神社 産土社(産土大神) 高良玉垂社(高良玉垂命) 円海稲荷社・野屋敷稲荷社・長栄稲荷社・愛宕稲荷社(倉稲魂神) 弁天社(市杵島比売命・多岐理比売命・多岐津比売命) 高良玉垂社 由来 文明年間(1469~1487)世田谷城主(8代左兵衛頼康のころ)の勧請により創建され、七沢八社随一正八幡宮と称された。江戸時代歴代地頭の尊信厚く、慶安3年(1650)ときの知行斎藤摂津守の八幡宮領七石四升は、前と同じに寄進することの黒印状があったが当社の別当であった森巌寺の火災により焼失した。 産土社 現在の産土社はこの本殿で、嘉永5年(1852)に建築された。 現在の社殿は、昭和53年(1978)に改築され、神楽殿は、明治26年(1893)に建築され、平成16年(2004)改築した。 境内社 北沢八幡の秋祭り 世田谷北辺の守護神として、吉良家によって勧請されました。世田谷七沢八社随一、正八幡と称され、人々の尊崇を集めてきました。秋の例大祭には30台もの神輿が出て、境内一帯は人々で賑わいます。とくに神輿が境内に繰り込む時は圧巻です。
次のページ>>
|
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|