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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区代沢2-32-2

   国登録文化財 日本基督教団富士見丘教会
 富士見丘教会は、日本組合基督教会に属する教会として昭和11年(1936)に献堂され、昭和12年(1937)11月12日に認可、正式に設立された。当初の教会員は、神田淡路町で礼拝を守っていた信愛教会の有志十数名、及び番町教会の有志十数名が中心であり、そのころ大阪から上京して伝道を開始していた山本忠美牧師の下で合流して教会新設を計画し、昭和10年(1935)9月、現在地に会堂建設することを決定した。
 当時、周辺は住宅地として開発途上にあり、富士山も良く眺望できた。敷地選定にあたっては、下北沢という地の利と将来性が評価されたこと、教会員の郊外居住化に伴い、その利便性を考慮したと考えられる。建築計画は教会員の加藤俊一氏が行い、昭和11年(1936)10月14日に完成した。建築費用は教会員の負担のほかに、事業活動等でまかなわれた。山本牧師は教会に程近い現代田6丁目の教会員宅の隣に居住したが、この教会員の住宅も現存しており、平成12年(2000)には国登録文化財となっている。
 教会堂の外壁は当初はクリーム色で塗装され、屋根については下屋部分(側廊)が天然スレート葺きで、本堂の屋根は瓦棒葺きであった。昭和28年(1953)には2代目東方信吉牧師の手によって愛児園が開設され、この幼稚園舎として使用するため玄関脇にトイレ部分を増築し、またその後老朽化のため幾度か修理されているが、平成14年(2002)の改宗の際には間取りを一部復元した。木造2階建、切妻造で、棟の主体部南西に塔屋を付属する。
 現在外壁は創建時に合せてモルタルにクリーム色の吹付け塗装を施し、屋根は緑青色のカラー銅板で葺いている。礼拝堂は中央を広く取り、東奥に聖壇を構え、その両脇に尖塔アーチ形のステンドグラス窓を配する。前失2階は聖歌隊席であった。
 全体にプロテスタント教会堂らしく質素平明な意匠であるが、外部のバラ窓風レリーフや、城郭を想起させる塔の鋸壁、内部のトラス小屋など、要所を飾っている。特に堂内に約3メートル間隔で入る5つのトラス小屋技法は、明治から大正時代にかけて多くの建築物に採用されてきたハンマービーム架構に平行弦トラスを組み合わせたもので、我が国の洋小屋技法の研究上、貴重である。
 平成16年(2004)2月  世田谷区教育委員会
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所在地 世田谷区代沢3-27-1

江戸時代の初め、徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立されました。建物に三葉葵の紋所が見られます。また境内には、樹齢400年のイチョウが一対と、お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社があります。このあたり一帯は緑深い木々に包まれて落ち着けます。


 本堂


 淡島堂


 弁財天


 不動堂・閻魔堂

 境内には『針塚』があります。


所在地 
世田谷区代沢3-27-1 (森巌寺)

世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)
 森巌寺の針供養


 針供養とは2月8日や12月8日、あるいは両日ともに裁縫の仕事を休み、折れ針や古針を供養する行事のことをいう。現在、森巌寺の針供養は毎年2月8日に淡島堂で行われている。堂内に置かれた豆腐に古針が刺され、住職らによって供養の法要が営まれる。供養された針は豆腐より抜き取られ、淡島堂正面にある石棺に納められる。
 森巌寺における針供養の創始は不詳であるが、安政3年(1856)刊行の『狂歌江戸名所図会』には同寺の針供養に関連した狂歌が詠まれており、遅くとも安政期にはこの地で針供養が行われており、その施灸と共にかなりの程度著名であったと思われる。
  まかり(曲り)たる針も納る淡しまハ
          人をつりこむ御夢相の灸
  淡しまに灸をそすうる女等の
          針さす癪もをさまりにけり
        (「治まる」「納める」を懸ける)
 森巌寺の針供養は、かつては広く見られた民間信仰の風潮と、道具を大切に扱った先人達の思想をいまに伝えるものとして貴重な存在である。
 平成12年(2000)1月  世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区代沢3-25-3

 北澤八幡神社
  
本殿

    御祭神
応神天皇 比売神 神功皇后 仁徳天皇

  例大祭
九月第一土・日曜日

  社殿
本殿 祝詞殿 内拝殿 外拝殿(鉄筋コンクリート造)

神楽殿

  境内神社
産土社(産土大神) 高良玉垂社(高良玉垂命) 円海稲荷社・野屋敷稲荷社・長栄稲荷社・愛宕稲荷社(倉稲魂神) 弁天社(市杵島比売命・多岐理比売命・多岐津比売命)

高良玉垂社

  由来
文明年間(1469~1487)世田谷城主(8代左兵衛頼康のころ)の勧請により創建され、七沢八社随一正八幡宮と称された。江戸時代歴代地頭の尊信厚く、慶安3年(1650)ときの知行斎藤摂津守の八幡宮領七石四升は、前と同じに寄進することの黒印状があったが当社の別当であった森巌寺の火災により焼失した。

産土社

現在の産土社はこの本殿で、嘉永5年(1852)に建築された。
現在の社殿は、昭和53年(1978)に改築され、神楽殿は、明治26年(1893)に建築され、平成16年(2004)改築した。 


境内社



 北沢八幡の秋祭り
世田谷北辺の守護神として、吉良家によって勧請されました。世田谷七沢八社随一、正八幡と称され、人々の尊崇を集めてきました。秋の例大祭には30台もの神輿が出て、境内一帯は人々で賑わいます。とくに神輿が境内に繰り込む時は圧巻です。



 


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