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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区世田谷1-23-3 (世田谷信用金庫本店)

  北原白秋歌碑


 ぼろ市に 冬はまづしき 道のしも 桜小学に 通ふ子らはも










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所在地 世田谷区世田谷1-29-18

 世田谷代官屋敷
  指定 昭和27年(1952)11月3日旧史跡指定
      昭和34年(1959)2月21日史跡指定 
 江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(2千3百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
 大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永10年(1633)、井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。
 屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231.4㎡)、萱葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。
 平成22年(2010)3月建設 東京都教育委員会

     Setagaya Daikan Yashiki
 At the beginning of the Edo Period,Oba clan served as magistrates of Setagaya (over 2,300 koku;1 koku is approximately 180.39 L,based on a unit uniformly used as of 1690),which was a domain of Ii clan of Hikne;they took over this function generation by generation until the Meiji Restoration.The premises are the remains of thier residence,including residentiak buildings used as a magisstrate's office.
 Oba clan issued important vassls of Kira clan who were lords of Setagaya castle during the Middle Ages,however,when their lord,Kira clan supported Hojo clan ofOdaawara at the time of military campaigns led by Toyotomi Hideyashi against Odawara and the clan was brought to ruin,the Oba clan remained in Setagaya Shinjuku (Kamimachi),so that they areareduced to farmers.They are appointed as magistrate for Ii clan of at the time of granting 15 villages (later 20 villages) of Setagaya area  to the clan in 1633.Subsequently,they took over the position of the magistrate and engaged in the government of the villages until the abolition of the feudal domain system from the Edo Period in 1871.
 The residence was from the Middle Edo Period;the main building which was the center of  the magistrate's office is ca.70 tsubo(ca.231.4㎡) large,with a thatched and hipped roof.Main gate with a hipped roof and a storehouse  covered by nud daub,and a part of remains of courtroom are still extant in order to represent the images of the residence at the time of the magistrates.
 Tokyo Metroporitan Board of Education






  重要文化財 大場家住宅
 この住宅は、大場家7代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事によって完成したものであります。大場家は、元文4年(1739)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官職を世襲したのでその役宅としても使用されていました。
 江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和53年(1978)1月21日国の十四文化財に指定されました。











所在地 世田谷区世田谷2-4-15

 桜小学校のオオアカガシ
  指定 昭和47年(1972)4月19日
 校庭の南東隅にあり、樹高約20メートル、目通り幹囲は3.01メートルで、樹頂は北方に傾いてはいるが、全体として球状である。
 もと当地には仙蔵院があり、明治13年(1880)、廃寺となり桜小学校が開設されたが、本樹は仙厳院本堂の裏手にあったといわれている。
 都内で知られているオオアカガシのちでは巨樹で、樹勢は旺盛である。
 なお、目黒の大鳥神社境内に同種の指定樹がある。
 昭和47年(1972)10月30日建設 東京都教育委員会











所在地 世田谷区世田谷1-29-18

 世田谷区立 郷土資料館

ホームページ ⇒ http://www.city.setagaya.lg.jp/990/d00004199.html



 郷土資料館には『「世田谷のボロ市」説明板』、『供養塔』、『狐の石造』、『三界萬霊塔』、『標石』、『道標』、『地蔵菩薩立像』、『庚申塔1』、『庚申塔2』、『庚申塔3』、『庚申塔4』、『摺臼と搗臼・麦打ちコロ』、『山吉講冨士登拝記念碑』があります。
所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 世田谷のボロ市  指定年月日 平成19年(2007)3月15日
 世田谷のボロ市は、天正6年(1578)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされている。掟書によると、この楽市は1と6の日の、1ヶ月に6日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代にあると江戸商業圏の拡大により、市は年に1回、12月15日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、1年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。
 この市は、明治6年(1873)の太陽暦の採用によって、翌明治7年(1874)から旧暦の歳の市に相当する1月15日にも開かれるようになり、また明治中期には16日も開催の定例となた。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。
 ボロ市は400年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も脳音の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。
 平成19年(2007)3月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 供養塔
 銘文
(左側面)
右 府中道
(正面)
文化十四年
 (梵字)馬頭観世音
 二月吉日
(右側面)
左 大山道
用賀村
 年代
文化10年(1813)
 伝来
 農家にとって、馬は収入の源であり財産であった。馬頭観音は、命を失った馬を弔うために建立された供養塔である。この供養塔は、用賀4-11-1の三叉路にあったもので、道標を兼ねていた。 
 昭和初期、近くにあった火の見櫓撤去の際に取り外され無量寺門前に移設されていたが、昭和42年(1967)に無量寺より当館に寄贈された。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 狐の石像
 銘文
なし
 伝来
 主神に従属し、その先触れ(みさき)となって働く神霊や小動物のことを「使わしめ(神使・神令)という。狐は、稲荷の使わしめであるが、「伊勢屋稲荷に犬の糞」という江戸の諺の通り、世田谷の村々でも屋敷神に稲荷を祀ることが多く、これが具象化されて祠の前に鎮座した。この石像は、昭和52年(1977)7月に三宿の大江淳一氏から寄贈されたものである。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(左側面)
右り 江戸道
(正面)

庚申塔
(右側面)
左り 世田ヶ谷四ッ谷道
(背面)
文政十丁亥年十一月吉日
  用賀村下講中
 年代
文政10年(1827)
 伝来 
 中国の道教では、人間の体内にいる三尸が庚申の夜に抜け出し、天帝にその人の罪過を告げるというので、庚申の夜には身を慎んで徹夜をせよと説いた。この守庚申の信仰は、日本に伝わり奈良・平安時代には宮廷を中心に広まったが、民間に浸透するにあたって仏教や神道の影響を受け変容した。江戸時代に亥は庚申堂が建てられ、庚申講が組織されるようになった。
 この庚申塔は用賀村下講中によって建立されたもので、道しるべの役割を持つものである。青山大山道が三軒茶屋で二手に分かれて用賀3丁目で再び合流する地点にあったものである。交通量の増加に伴って、一時真福寺境内に保管されていたが、同寺から当館へ寄贈されたものである。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(左側面)
北 府中道
 (噴火カ)
□□13丙子年□月吉日
(正面)
庚申塔 東目黒道
 瀬田村
(右側面)
南 六かう(六郷)道
(背面)
造一基者庚申供養願    石居重良右ヱ門  矢藤佐右ヱ門
                  矢藤彦右ヱ門  新倉藤五良
叶為               角井市良右ヱ門  矢藤久右ヱ門
                  同 伝右ヱ門   星谷善太良
□□月□日□武州荏原郡    小泉茂右ヱ門  同 善右ヱ門
                  星谷三良左ヱ門  金子喜兵衛
 年代
文化13年(1816)
 伝来
 この庚申塔は、昭和30年代には旧瀬田町会事務所敷地内にあったが、昭和48年(1973)11月当館に寄贈されたものである。当初は現瀬田1丁目と上野毛3丁目との境になっている現駒沢通り付近にあったのではないかといわれている。




所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(左側面)
東ハ赤坂道
(正面)
庚申供養
西ハ大山道 講中八人
延享四丁卯十二月吉日
(右側面)
右 めぐろミち
(背面)
□道
 年代
延享4年(1747)
 伝来
 この庚申塔は、旧大山道に面して(駒沢2-17-1)あったが、昭和60年(1985)11月に当該地の加藤登喜一家から当館に寄託された。
 平成15年(2003)1月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(正面)
奉建立 庚申塚
享保十三年 申五月十日
 年代
享保13年(1728)
 伝来
 この供養塔の本尊は、病魔・病鬼を払い退くとされる六臂三眼・憤怒相の青面金剛で、三尸を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。小野亀善氏(三軒茶屋1-19-8)が、昭和20年(1945)頃某家よりもらい受け自宅に安置していたものである。昭和51年(1976)8月当館に寄贈された。当所の設置場所は不明。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 三界萬霊塔
 銘文
(左側面)
南 池上道
発願人 
当村 伝右衛門
(正面)
天明5巳年11月
三界萬霊等
西 さ加み(相模)道
(右側面)

北 高井戸宿通り
(背面)
東 江戸道
 年代
天明5年(1785)
 伝来
 三界とは、一切の衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊とは、この迷いの世界におけるすべての霊あるものという意味である。真宗以外の寺院で、施餓鬼など、広く無縁の有情を供養する際に用いられているが、この萬霊塔は、道しるべを兼ねている。
 旧玉川電車真中駅付近から北側に入った辺りにあったと伝えられているが不詳である。昭和42年(1967)に柴田元之助氏から寄贈を受けたものであるが、同氏は昭和初期に、当時の駒沢小学校校長横溝一清氏より寄贈されたと伝えている。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 山吉講冨士登拝記念碑
 富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として旧くから存在したが、庶民の間に冨士登拝の風習が盛んとなったのは富士の行者・食行身禄が現れて庶民の救済の教義を提唱した十八世紀以降のことである。食行身禄の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこからは多くの枝講が生まれることとなった。こうして、冨士講は十九世紀の初頭にその隆盛期を迎え、俗に「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げたのである。
 当冨士登拝記念碑は、三軒茶屋の冨士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が、講中の三十三回冨士登拝を記念して屋敷地の一角(現・太子堂4丁目438番地付近、茶沢通り路上)に建てたものである。また、その際、北口本宮冨士浅間神社(現、富士吉田市)の境内にも、もう1基記念碑を建てており、それも同所に現存している。
 堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の1つ田中屋を経営した旧家である。
 平成5年(1993)3月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 摺臼と搗臼・麦打ちコロ
銘文
 なし
 
伝来
 摺臼は、上臼と下臼を重ね合わせて上臼を回転させるものである。接合面に目を切り、その間に穀物などを通して製粉するものである。搗臼は、上部を刳り、これに穀物などを入れて杵で搗を脱穀や精白を行った。
 これらの臼は、火薬をつくるため焔硝(硝煙カリウム)の原料である硝石などの粉砕に用いたものと伝えられている。いずれも松原2丁目大庭信一氏から当館に寄贈されたものである。
 麦打ちコロは、牛などで牽いて麦を脱穀したものである。莚に刈った麦を敷き、昭和44年(1969)に祖師谷1丁目田中良平氏から当館に寄贈された。
 平成15年(2003)1月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 地蔵菩薩立像
 銘文
(左側面) 
武州荏原郡瀬田谷領
□内若林村
男同行弐拾六人
(正面)
宝暦6丙子年(1756)
念□講供養仏
8月2□日
(右側面)
是より南
いけがミみち
 年代
宝暦6年(1756)
 伝来
 この地蔵菩薩像は、宝暦6年(1756)に若葉や志村の念仏講の人々により建立された。念仏は西方浄土への往生の業として唱えられるもので、念仏講は、来世すなわち死後に対する信仰という面が強く、死後の世界の道案内者と信じられていた地蔵像を造立することが多い。この地蔵菩薩立像は、現在の常磐橋陸橋付近にあったが、環状7号線施設工事のおり、旧若林村の名主であった根岸家の敷地内に移され、昭和57年(1982)、現当主根岸武守氏により当館に寄贈された。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 道標
 銘文
(左側面)
右 登戸道
本願主  石田十右衛門
(正面)
左 延享3丙寅年
さがみ □吉日
  (梵字)大山道 世田谷上宿同行五十人
 年代
延享3年(1746)
 伝来
 この道標は、もと弦巻5-16-31の三叉路にあったが、交通量の増加に伴い、通行車両の振動や接触などで、下部は土中に埋没した状態になっていた。
 そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって、当館へ移設されたものである。
 なおお、道標のあった場所には、そのよすがを留めるtめに同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。
 「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。」
財団法人  大場代官屋敷保存会
世田谷上町町会
 平成14年(2002)11月 世田谷区教育委員会








所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 標石
 銘文(正面) 
品川領用水御普請所
          
保7申歳2月
 年代      
天保7年(1836)
 伝来
 寛文2年(1662)、熊本藩主細川越中守綱利の弟・若狭守利重が品川領戸越に抱屋敷を取得したが、その邸内の泉池用に、野川村新川より仙川養水を分水して戸越上水を開削した。
 仙川養水は境村(現武蔵野市)から玉川上水を分水したものであった。細川家ではこれを寛文6年(1666)に廃止したが、早損に苦しんでいた品川領宿村の農民がこの古堀を用水として賜りたいと願い出て、翌寛文7年(1667)幕府の許可を得た。灌漑用水としては細小だったため、寛文9年(1669)幕府は水路の拡張工事を行った。
 品川用水は、本区だけでも烏山・粕谷・廻沢・船橋・世田谷・弦巻・世田谷新町・馬引沢の旧八か村を流れ、全長七里(約28キロメートル)にも及ぶものであった。上流で数ヵ所の分水口が設けられたことなどから、品川領宿村までの引水量は充分ではなく、用水をめぐる争いが絶えなかった。


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