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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区下馬2-11-6

真言宗智山派
 日輪山 薬王院 西澄寺

 玉川八十八ヶ所霊場52番


















 西澄寺には『武家屋敷門』があります。





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所在地 世田谷区下馬2-11-6 (西澄寺)

 武家屋敷門 指定昭和39年(1964)4月28日
 現在の港区芝5丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。切妻造で、桁行六間の、中央に二間の両開き戸があり、その左右にそれぞれ片開きの潜戸と板壁を設けます。門の両端には、切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と、門内に面した側には式台が構えられています。
 この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1684~1688)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。蜂須賀家の中屋敷門として、25万石の大々名の家禄と家格に応じて建築されたものと考えられています。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。
 平成22年(2010)3月建設 東京都教育委員会

    Bukeyashiki-Mon
At the end of Taisho period,Nakayashiki-Mon (gate of feudal lord's semi-residence in Edo) belonging to Hachisuka family,Awanotokushima clan,was relocated to Saicho-ji and used as Sanmon (main gate at a Zen temple).This gate's name is Bukyashiki-Mon.It is a 6-bays wide gate with 2-bays wide entrance (casement door) in the centre and has gable roof.At both sides of the gate,there are 1-day wide wicket gates (single swing doors) and 2-bays wide outward pointing walls.Two guard stations with gable roof extend 1-bay forward on both seides of the gate.Each of them is 2-bays wide and 3-bays deep.They have a size equal to six Tatami mats and have Shikidai (entrance with low broad steps of timber) on the inside of the gatre.It is presumed that the gate was built an the end of Edo period and has a style defined by pent roof,stone walls and guard stations.Concernning the main gates of feudal lord's residenses,the Edo government imposd the style and the structure,depending on the feudal lords' class decided by wealth.Nakayashiki-Mon was constructed after the class of Hachisuka family was declared to be 250,000 koku(able to support 250,000 people).It is valuable as one of few remaining Bukeyashiki-Mon in Tokyo. 
 Tokyo Metropolitan Board of Education












所在地 世田谷区下馬4-27-26

 駒繁神社
祭神 大国主命 昔から「子の神」といわれ、出雲大社の分霊を守護神として祀る。天喜4年(1056)源頼義、義家父子が奥州征伐の際その武運を祈ったと伝えられている。
その後、文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原氏の征伐のおり、祖先義家が参拝したことをしのび、愛馬芦毛を境内の松の木につないで参拝したとのいい伝えから、明治以後駒繋神社と称するようになった。
 昭和54年(1979)3月 世田谷区教育委員会





御社号
 昔より「子の神」「子の明神」又は「駒繋神社」とも称えられていましが、明治以降は正式には「駒繋神社」と呼ばれるようになりました。しかし今までもなお昔の名称で「子の神」と広く呼ばれています。
・御祭神 
 御祭神は大国主命(御■■■)、大物主命、大国王命、大巳■■であります命は素盞鳴■■御子として古事記、日本書紀、出雲風土記等によれば因幡の白兎少彦命との国作りの話、国譲りの物語でよく知られている神様であります。大国主の御名の意味は「おゝ(大)な(土地)むち(霊)」即ち大きな土地の守護神、国土の主領神を意味しています。御祭神は慈愛深く人々に療病の方を教えられ、殖産興業畜産の奨励など一般国民の福利増進等に専念された御神徳あらたかな神様であります。
・御由緒及び此地の沿革 
 今から約900年程の昔、平安時代後期御冷泉天皇の天喜4年(1056)4月源義家公が父頼義公と共に朝廷の命を受け奥州に向う途中この土地を通過する際子の神に祈願参拝したと伝えられているから少なくもこれ以前に里人達によって出雲大社の御分霊をを勧請し守護神として祀った事はあきらかであります。降って文治5年(1189)7月源頼朝公が奥州征伐のため鎌倉を発し世田谷郷のこの地に至ったとき往時祖先義家公が当社に参拝したのを回想し、愛馬芦毛より降りて駒を繋いで(駒繋の松)を拝したこの事があって以来頼朝公が鎌倉に幕府を開き威勢の盛んなるに従って子の神を駒繋神社とも称するようになったと伝えられています。頼朝公はそれより乗馬し発進しようとしたが当社前より世田谷区上馬町までは一面のぬかるみであったので下馬しこの間を徒歩で渡りそのより先は乗馬(上馬)した。後世この故事にちなみ駒繋神社一帯を下馬と云い、乗馬した地を上馬と呼んで現在に至っています。以上は社伝、種々の著書を参照し記しました。
 尚、古老の伝承及び、江戸名所図絵、新編武蔵風土記、等によってこの地の沿革を記せば次の如くであります。文治年間頼朝公が奥州征伐の時荏原野より芦毛の馬を撰んで子の神に奉納しようとしてこの地に牽いたが躓いて倒れたので止めたと伝え、或はまた頼朝公がこの地に狩りに来た時愛馬が頗りに驚き誤って沢に落ち死んでしまった。そこで塚を築きこれを足毛塚と呼んだとも伝えられる。(この塚は神社の近くに現存している)これらを総合すると駒繋神社(子の神)は東京では名社の一つである事がよくわかります。




 駒繁神社には『大脇月甫歌碑』、『日露戦没記念碑』、『三代目 駒繁の松』、『下馬土地区割整理記念碑』、『「陸稲の藤蔵糯」説明板』があります。

所在地 世田谷区下馬4-27-26 (駒繁神社)

 陸稲の藤蔵糯
 日本人の主食として大切な米は水田でつくりますが、田の少ない地方では陸稲として畑で栽培し、畑作地帯の重要な作物で農家は、収量を少しでも多くするため熱心にh人種改良にとりくみ、東京の農家が作りだしたものも数多くあります。
 陸稲の糯米「藤蔵糯」は明治30年代はじめ、荏原郡駒沢村下馬引沢(現在の世田谷区下馬)の清水藤蔵氏が、それまで栽培していた尾張糯を改良してつくりだしたことから「藤蔵糯」と呼ばれました。
 田んぼで作る水稲に比べると粘りが弱い陸稲は、赤飯に用いられ、餅には水稲が使われていました。しかし、この「藤蔵糯」は、水稲に劣らぬおいしい餅をつくることができ、収量が多く、病気にも強いので、東京都の奨励栄品種にも採用されました。
 また、その後に品種改良された、「陸稲農林1号」をはじめ、優れた品種をうみだす母体ともなりました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業
 世田谷目黒農業協同組合

   THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO

         Tozo Mochi (Upland rice)
 Rice,the Japanese staple food, it grown in paddy field.In the regions where paddy field is scarce,houwever,it was grown in dry field and an important upland crop for the people.
 A variety of glutinous rice "Tozo Mochi" wad developed in early 1900s by Tozo Shimi zu of the present Komazawa,Setagaya ward and named after him.The "Tozo Mochi" could make tasty "Mochi" (rice cake) as good as paddy rice and,also,was high-yielding and hardy to deseases.It was adopted to a variety for recommendation by the City of Tokyo. 



所在地 世田谷区下馬4-27-26 (駒繁神社)

 大脇月甫歌碑
 大脇月甫(本名鋪郎 明治35年〔1902〕岐阜県生)先生は昭和3年(1928)国学院大学国文科に入学されたころ当神社の鳥居近くに移り住まれ、9月に歌誌「青虹」を創刊、昭和5年(1930)には「短歌心覚論」を誌上発表し、短歌結社青虹の基礎をこの地で確立されました。
  月かげの濃くさし くれば 散りのこる
   一葉もちらむ つめたき夜 なり      月甫
 昭和12年(1937)、選歌や編集に忙しい日々を送られていた先生が、このあたりの木々の葉も散り落ち、深々と月のある夜更け、何故か梢に散り残っている一葉を御覧になってのこの歌は、歌の道に徹する結社の成長と門下の訓育の為に心をひきしめ続けておられたお心にこそ初めて映った「散り残る一葉」だったのです。
 短歌一筋を貫かれた先生は昭和55年(1980)急性心筋梗塞で亡くなられまいたが、先生の提唱された「心覚の精神は一門に継承され、青虹は現在84巻を超え、まもなく通巻壱千号を迎えようとしています。
 平成22年(2010)10月 青虹


所在地 世田谷区下馬5-41

 葦毛塚あしげづか
源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。
また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏教をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。
いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚とよばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。
 昭和53年(1978)3月 世田谷区教育委員会











所在地 世田谷区下馬4-9-4 

世田谷山 観音寺(通称 世田谷観音)

 江戸三十三観音 第32番札所
昭和26年(1951)睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜浅草寺に請い、開眼の法を修したものである。本尊は、聖観世音菩薩で、ほかに特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は、国のため若き命を捧げた特攻隊員4千6百15柱の英霊の安息所とし、また、それぞれの堂には、国指定重要文化財の不動明王ならびに八大童子像が安置され、ほかに都指定有形文化財の五百羅漢坐像が安置されている。
 昭和54年(1979)3月 世田谷区教育委員会







 世田谷観音 観音寺には『仁王門』、『仁王像』、『特攻観音堂(本堂)』、『世田谷観音本坊(旧小田原藩代官屋敷)(』、『門標』、『阿弥陀堂』、『鐘楼堂』、『不動明王』、『夢違観音』、『文殊菩薩』、『馬頭観音・水子観音・八方睨み達磨』、『地蔵菩薩』、『開山塔』、『あゝ特攻勇士之像』、『三鈷の松』、『神州不滅特別攻撃隊之碑』、『世界平和の礎碑』、『南無観世音の碑』、『特攻平和観音石碑』、『多宝塔』、『鬱金の桜』、『特別攻撃隊の頌碑』、『天山隊之碑』があります。


所在地 世田谷区下馬4-9-4 (世田谷観音 観音寺)

 阿弥陀堂
(戌・亥歳の守本尊)
御真言 おん あみりた ていぜいから うん

 五百羅漢
悟りを極めた高僧。都有形文化財(九体)

 韋駄天
捷疾鬼(天邪鬼)が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを直ちに追って取り戻したということから、足の早い神として知られています。お馴染みの韋駄天走りの語源になっています。スポーツの神。足腰を丈夫にしてくれます。


所在地 世田谷区下馬4-9-4 (世田谷観音 観音寺)

 三鈷の松
弘法大師空海上人が唐から帰朝する時三鈷を「密教有縁の地に行きて我を待つべし」と天高く投げられました。帰朝後、高野山で松の枝に留まっていた三鈷を派遣し高野山を伽藍建立の場所に定めたとされています。落ち葉を持っているとご利益があると云われています。


所在地 世田谷区下馬4-9-4 (世田谷観音 観音寺)

 神州不滅特別攻撃隊之碑
第二次世界大戦も昭和20年(1945)8月15日祖国にほんの敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦后の8月19日午后2時当時満州派遣第一■675部台に所属した今田均少尉以下10名の青年将校が、「国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ」と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連戦群に向けて大虎山飛行場を発信前記戦車群に体当り全員自爆を遂げたものでその、自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此處に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり

陸軍中尉    今田達夫    広島
  〃      馬場伊与次  山形
  〃      岩佐輝夫   北海道
  〃      大倉巖     北海道
  〃      谷藤徹夫    青森
  〃      北島孝次    東京
  〃      宮川進二    東京
  〃      日野敏一    兵庫
  〃      波多野五男  広島
少尉       二ノ宮清    静岡
 
 昭和42年(1967)5月 神州不滅特別攻撃隊 顕彰会建之



所在地 世田谷区下馬4-9-4 (世田谷観音 観音寺)

 仁王像 平安後期12世紀後半都内最古の仁王像
平安時代の金剛力士像
法用寺 (ほうようじ 福島県)国重要文化財
財賀寺 (ざいがじ 愛知県) 国重要文化財
善水寺 (ぜんすいじ 滋賀県)国重要文化財
醍醐寺 (だいごじ 京都府)国重要文化財
峰定寺 (ぶじょうじ 京都府)国重要文化財
安楽寺 (あんらくじ 青梅市)都有形文化財




所在地 世田谷区下馬4-9-4 (世田谷観音 観音寺)

 特攻観音堂(本堂)

 聖観世音菩薩
国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が奉蔵されています。
  陸軍
航空      1,355柱        
空挺・降下    615柱

海上挺進     265柱
戦車         9柱
計       2,244柱

  海軍
航空     2,548柱
水中(特潜)   437柱
水中(回転)   104柱
水上(■洋)  1,085柱
計        4,174柱
合計     6,418柱

 別名
施無畏者(畏れ無きを施す者)
私達の怖畏心(恐怖心)を取り除いて下さる菩薩
 御真言
おん あろりきゃ そわか


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プロフィール
HN:
永山
性別:
男性