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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区弦巻4-32

 大山詣像
 江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から青山、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を通って、用賀、二子玉川に行っていました。
 しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってきました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しあだろうと思われるこの場所に設置したものです。
 昭和60年(1985)3月 世田谷区


所在地 世田谷区弦巻3-29-6

曹洞宗
 鶴松山 実相院
 寺伝によれば、当寺の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衛佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。
 天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は城を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。
 徳川家康が江戸入府後、氏麻は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長8年(1603)示寂した。
 「新編武蔵国風土記稿」には、「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と、記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌んみ本堂に安置せらる。
 慶安元年(1648)、家光より朱印地十石二斗二升を賜っている。
 昭和61年(1986)11月 世田谷区教育委員会












 北門

 実相院には『高橋是清翁之鬚墓』、『武蔵の國 世田谷の史蹟碑』があります。


所在地 世田谷区弦巻3-29-6 (実相院)

 武蔵の國 世田谷の史蹟碑
 当寺は鶴松と号し曹洞派の禅寺にして本尊に薬師如来を安置する 天正元年(1573)世田谷城主吉良第八代三兵衛督従四位下源氏朝(慶長8年〔1603〕9月63歿)の創立天永琳達禅師(元和2年〔1616〕8月11日寂)を開山とする
 吉良家は第五十六代清和天皇の末裔八幡太郎義家の子孫で建武元年(1334)世田谷に居城世田谷御所と称し禄高拾八萬石の大名にして天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐により滅亡した
 実相院は勝光禅院に属し吉良家滅亡と共に衰えたその後徳川幕府より御朱印地として実相院領本村(現弦巻3丁目)及び八幡脇(現松■小学校一帯)実相院丸(現世田谷2丁目ボロ市■■)の地と禄高拾石二斗二升を賜った(慶安元年〔1648〕7月17日代) 慶安4年(1868)7月御朱印を返還し現在に至る
 境内に氏朝夫妻の塚のこる



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永山
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