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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区桜1-26-35

曹洞宗
 延命山 勝光院
 勝光院は初め金谿山龍鳳寺といい、建武2年(1335)吉良氏の創建になると伝えられる。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。同天正10年(1582)客殿(旧本堂)の建立を機に、家臣関加賀守が虚空蔵菩薩像を寄進した。
 同天正19年(1591)、徳川家康から寺領30万石を与えられた。なお元文2年(1737)には、山号を延命山に改めている。
 当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、清水寺式の珍しい千住観世音菩薩坐像がある。この像は、もと城山(世田谷城址)にあった塔頭の千手院の本尊であった。書院は文政6年(1823)の再建で、区有形文化財に指定されている。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣広戸備後正之の墓がある。
 平成4年(1992)3月 世田谷区教育委員会
 

 





 勝光院には『吉良氏墓所』、『勝光院の梵鐘』があります。
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所在地 世田谷区桜1-26-35 (勝光院)

 吉良氏墓所   指定 平成13年(2001)11月28日
 吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀・頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。
 関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村(現千葉県)に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。
 勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全二十八基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。
 平成13年(2001)12月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区桜1-26-35 (勝光院)

 勝光院の梵鐘
 本梵鐘は、元禄11年(1698)、当山第十三世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝われる梵鐘としては、2番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年(1977)、当寺に返還され、今日に至っている。
 梵鐘の形姿は、優美で均整がとれ、各所に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は、八王子に本拠をおき、江戸時代をつううじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。
 本梵鐘は、吉高の力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えたうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の『世田谷弐拾ヶ村御帳』(元禄■年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この時期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。
 
 近世世田谷区歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえにも、本梵鐘は貴重な遺品である。
 平成1■年12月 世田谷区教育委員会









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