東京都世田谷区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 世田谷区太子堂4-15-1 (教学院) 相州小田原城主大久保家歴代の墓 大久保家は、下野国の住人、宇都宮左近将監泰藤を祖とし、延元3年(1338)三河に移住後、姓を「宇津」と改め、第三世昌忠が松平信元(徳川家康の七世祖)に仕えてより、代々松平家に仕えた。第七世忠俊のとき、「大久保」に改姓し、家康の祖父清康、父広忠に仕え、才智、武勇に優れ、中興の祖として大久保一門の棟梁となったが、その弟忠員は、長男忠世(小田原城主)をはじめ、忠佐(沼津城主)、忠包(三木城討死)、忠寄(三方原討死)、忠核(三州入江討死)、忠為、忠長、忠教(彦左衛門)等8人の男子に恵まれ、父子共々、数多くの合戦に出陣し、抜群の戦功をあげ、兄の後継として、大久保一門の棟梁となった。 烏山藩主大久保家は、忠員の六男忠為を祖とし、第3世常春は、6代将軍家宣、7代将軍家継、8代将軍吉宗に仕え、享保10年(1725)下野国烏山藩主(2万石)を仰せつかり、享保13年(1728)老中に列せられ、併せて3万石に加増された。 以来、第十世忠順に至るまで、8代、144年間に亘り、烏山藩主として在籍した。 この間、歴代の藩主は一般領民に慕われ、間引きの悪習を禁止し、領民の出生児には奨励金を与え、荒地を興し、用水を引き開田の策をたて、また、天保の飢饉(1831~1834)に対しては「烏山仕法」をもって領内を治め、「お粥小屋」を作る等、住民の生活を守った。 明治2年(1869)忠順13才のとき、明治維新により版籍を奉還、明治4年(1871)廃藩置県が実施され、烏山県知事(後宇都宮県知事)歴任後、明治23年(1890)貴族院議員となり、終生その任にあった。また、明治17年(1884)華族令公布により、子爵を授けられたが、昭和20年(1945)第二次世界大戦終結、翌年新憲法発布により、華族令は廃止された。 平成5年(1993)春彼岸吉祥日建之 第十二世 大久保忠訓 弟 大久保忠良 下野國烏山藩主歴代墓碑 第一世 左馬介忠知 正保元年(1644)11月24日没 由信院殿教牕日通大居士 第二世 伊豆守忠高 元禄15年(1702)4月25日没 嶺翁院殿相巌道無大居士 第三世 佐渡守常春 享保13年(1728)9月8日没 老中 高門院殿圓樞妙機大居士 室 生池院殿清山妙浄大姉 元禄12年(1699)4月11日没 後室 凉安院殿澄月智心大姉 元禄15年(1702)6月11日 第四世 山城守忠胤 安永8年(177998月2日没 仁譲院殿義山徹忠大居士 第五世 伊豆守忠郷 明和6年(1769)2月10日没 稟性院殿専想澄清大居士 芳寿院殿貞室善苗大姉 享和3年(1802)11月24日没 第六世 山城守忠喜 文化9年(1812)8月10日没 霊源院殿珍臺顕瑞大居士 室 光寿院殿貞真實相大姉 文政元年(1818)10月27日没 第七世 佐渡守忠成 嘉永4年(1851)2月4日没 圓桓院殿泰嶽了玄大居士 室 慈心院殿梵室妙行大姉 嘉永元年(1848)12月12日没 第八世 佐渡守忠保 嘉永元年(1848)9月5日没 厳浄院殿武林宗徹大居士 室 法霊院殿慈月妙観大姉 文政5年(1822)7月22日没 後室 観寿院殿徳應妙喜大法尼 明治23年(1890)9月5日没 第九世 佐渡守忠美 元治元年(1864)8月20日没 泰真院殿雄山性徳大居士 第十世 大久保忠順 大正3年(1914)5月11日没 高顕院殿徳本道順大居士 室 清顕院殿恭順妙鉞大姉 俗名 鉞子 昭和4年(1929)5月5日没 第十一世 大久保忠春 昭和37年(1962)4月8日没 明静院殿凌雲忠春居士 室 真静院殿瑞光妙銈大姉 俗名 銈子 大正9年(1920)4月11日没 後室 明浄院殿福寿妙晃大姉 俗名 晃子 昭和61年(1986)1月5日没 PR |
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