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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区若林4-35-1

 吉田松蔭先生は天保元年(1830年)8月4日長門の国(山口県)萩において、藩士杉百合之助常道の次男として生れる。
 名は矩方、通称寅次郎、字名は松蔭、二十一回猛士と号す。
 吉田松蔭先生5歳(1835)のとき、世々山鹿流兵学師範の吉田家を嗣ぐ。
 吉田松蔭先生21歳(1851年)の時

不踏死比不能成善士

(男というものは、死ぬとわかっていても、殺されるとわかっていても、せねばならぬ)

と掛け軸(細木和子氏所有 2007年現在)に書き残す。
つとに尊皇攘夷を唱え憂国の志甚だ深く、海外に航して宇内の形勢を究めようとしたが果せず、安政3年(1856年)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて、維新の大業を翼賛した俊秀の青年、高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響を与えたのである。
 明治維新の先覚の士、吉田松蔭先生の愛国の至誠は、独り日本人のみならず広く世界の人々の敬仰するところである。

親思ふ こころにまさる 親心
  
けふの音づれ 何ときくらん  

 長州藩の志士吉田松陰が幕府の弾圧「安政の大獄(1858~1859)」に連座し、江戸伝馬町の獄中処刑されたのは、安政6年(1859年)10月27日のことでした。吉田松陰は死に際し、

身はたとひ 武蔵野の野辺に 朽ちぬとも
 留め置かまし 大和魂

と詠みました。自分の肉体は亡んでも、志だけはこの世に留めておくのだという、凄まじい決意を込め、30歳の若さで散ったのです。
 吉田松陰の志を継いだ高杉晋作や久坂玄瑞を始めとする門下生たちは、尊皇攘夷を唱え、ついに二百数十年間続いた幕府を倒し、維新の大業を成し遂げました。
 吉田松陰の遺骸は最初、千住小塚原に罪人として埋められていました。 松下村塾門下生、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等同志によって、4年後の文久3年(1863年)1月9日、長州藩の所有地であった世田谷若林の地(神苑の西方老松楓樹の下)に改葬された。同時に頼三樹三郎小林民部も同じく回向院より改葬された。
 改葬時、神社所在地一帯は、旧毛利藩主毛利大膳大夫の抱屋敷(別邸)であった故をもって、大夫山(だいぶやま)と呼ばれていた。
 明治15年(1882年)11月、吉田松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて松蔭神社とあがめ、吉田松陰先生の御霊をまつり、長く忠魂の鎮座する所となった。
 現在の社殿は吉田松陰没後50年際を記念して、昭和2年(1927年)に造営されたものである。
 鎮座百余年を過ぎた今日、勉学、進学、開運厄除、の神として崇敬を集めている。

<御祭神>

贈正四位、吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰)

<例祭日>

春、4月27日   秋、10月27日

<神社創建>

明治15年(1882年)11月21日、元府社に列す。

<墓所>

前述の如く境内には、吉田松陰先生の墓碑を始め、安政の大獄(1858~1859)に連坐した烈士の墓碑がある。

<石燈籠>

境内には旧藩主毛利元昭公を始め、吉田松陰先生門下の木戸孝允、乃木希典、山形有朋等より奉献された三十二基の御影石の燈籠がある。その塔柱に刻されている文字は書家高田竹山の八分隷書体である。



 境内には『松下村塾』、『吉田松陰墓』、『小林民部少輔墓』、『来原良蔵多々良盛功墓』、『頼三樹三郎某姓醇墓』、『福原乙之進大江信冬墓』、『綿貫治良助墓』、『野村靖夫妻墓』、『中谷正亮源實之墓』、『徳川氏奉納の石燈籠と水盤』、『徳富蘇峰植樹の碑』、『明治百年祭記念碑』が、松陰神社霊域には『桂太郎墓』があります。

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