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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区太子堂3-30-8

真言宗豊山派
 聖王山 法明院 円泉寺(圓泉寺)

聖王山法明院しょうおうざんほうみょういんとよび、真言宗である。文禄5年(1597)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。
世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。
先生は、明治3年(1870)郷学所ごうがくじょがつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校と、なまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。
 昭和49年(1974)3月 世田谷区教育委員会



 円泉寺境内には『庚申供養塔』、『聖徳太子立石碑』があります。

 
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所在地 世田谷区太子堂4-15-1

天台宗
 竹園山 最勝寺 教学院

関東三十六不動霊場 第16番
札所

本寺は慶長9年(1604)玄応和尚の開基により、江戸城内紅葉山に建てられたという。後、明治41年(1908)青山からこの地にうつされた。
本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられる。また、不動堂の目青不動は東都五色不動(五眼不動)の1つとして有名である。
境内には相州小田原城主大久保家歴代の墓、南画家岡本秋暉、その子書家岡本碧巌等名家の墓がある。
 昭和51年(1976)3月 世田谷区教育委員会

 
                                                   最勝寺教学院不動堂(目青不動尊)



 教学院境内には『相州小田原城主大久保家歴代の墓』、『故閣老小田原侍従加賀守藤公墓碑』、『岡本秋暉墓』があります。

 


所在地 世田谷区太子堂4-15-1 (教学院)

  相州小田原城主大久保家歴代の墓
 大久保家は、下野国の住人、宇都宮左近将監泰藤を祖とし、延元3年(1338)三河に移住後、姓を「宇津」と改め、第三世昌忠が松平信元(徳川家康の七世祖)に仕えてより、代々松平家に仕えた。第七世忠俊のとき、「大久保」に改姓し、家康の祖父清康、父広忠に仕え、才智、武勇に優れ、中興の祖として大久保一門の棟梁となったが、その弟忠員は、長男忠世(小田原城主)をはじめ、忠佐(沼津城主)、忠包(三木城討死)、忠寄(三方原討死)、忠核(三州入江討死)、忠為、忠長、忠教(彦左衛門)等8人の男子に恵まれ、父子共々、数多くの合戦に出陣し、抜群の戦功をあげ、兄の後継として、大久保一門の棟梁となった。
 烏山藩主大久保家は、忠員の六男忠為を祖とし、第3世常春は、6代将軍家宣7代将軍家継8代将軍吉宗に仕え、享保10年(1725)下野国烏山藩主(2万石)を仰せつかり、享保13年(1728)老中に列せられ、併せて3万石に加増された。
 以来、第十世忠順に至るまで、8代、144年間に亘り、烏山藩主として在籍した。
 この間、歴代の藩主は一般領民に慕われ、間引きの悪習を禁止し、領民の出生児には奨励金を与え、荒地を興し、用水を引き開田の策をたて、また、天保の飢饉(1831~1834)に対しては「烏山仕法」をもって領内を治め、「お粥小屋」を作る等、住民の生活を守った。
 明治2年(1869)忠順13才のとき、明治維新により版籍を奉還、明治4年(1871)廃藩置県が実施され、烏山県知事(後宇都宮県知事)歴任後、明治23年(1890)貴族院議員となり、終生その任にあった。また、明治17年(1884)華族令公布により、子爵を授けられたが、昭和20年(1945)第二次世界大戦終結、翌年新憲法発布により、華族令は廃止された。
 平成5年(1993)春彼岸吉祥日建之 
  第十二世 大久保忠訓  弟 大久保忠良



   下野國烏山藩主歴代墓碑
第一世  左馬介忠知 正保元年(1644)11月24日没
       由信院殿教牕日通大居士
第二世  伊豆守忠高 元禄15年(1702)4月25日没
       嶺翁院殿相巌道無大居士
第三世  佐渡守常春 享保13年(1728)9月8日没
        老中 高門院殿圓樞妙機大居士
          室 生池院殿清山妙浄大姉
               元禄12年(1699)4月11日没
        後室 凉安院殿澄月智心大姉
               元禄15年(1702)6月11日
第四世  山城守忠胤 安永8年(177998月2日没
        仁譲院殿義山徹忠大居士
第五世  伊豆守忠郷 明和6年(1769)2月10日没
        稟性院殿専想澄清大居士
        芳寿院殿貞室善苗大姉
                享和3年(1802)11月24日没
第六世  山城守忠喜 文化9年(1812)8月10日没
             霊源院殿珍臺顕瑞大居士
          室 光寿院殿貞真實相大姉
                文政元年(1818)10月27日没  
第七世  佐渡守忠成 嘉永4年(1851)2月4日没
             圓桓院殿泰嶽了玄大居士
          室 慈心院殿梵室妙行大姉
                嘉永元年(1848)12月12日没
第八世  佐渡守忠保 嘉永元年(1848)9月5日没
             厳浄院殿武林宗徹大居士
          室 法霊院殿慈月妙観大姉
                文政5年(1822)7月22日没
         後室 観寿院殿徳應妙喜大法尼
                明治23年(1890)9月5日没
第九世  佐渡守忠美 元治元年(1864)8月20日没
        泰真院殿雄山性徳大居士
第十世  大久保忠順 大正3年(1914)5月11日没
             高顕院殿徳本道順大居士
          室 清顕院殿恭順妙鉞大姉 俗名 鉞子
                昭和4年(1929)5月5日没
第十一世 大久保忠春 昭和37年(1962)4月8日没
             明静院殿凌雲忠春居士
          室 真静院殿瑞光妙銈大姉 俗名 銈子
                大正9年(1920)4月11日没
         後室 明浄院殿福寿妙晃大姉 俗名 晃子
                昭和61年(1986)1月5日没

 


所在地 世田谷区太子堂5-23-5

  太子堂八幡神社



御祭神   譽田別命
大祭     10月 第2日曜日
社殿改築  昭和12年8月10日



  御由所及此地の沿革
 当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(1592~1596)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。



 太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
 此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、帯同上本村121~2番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
 真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
 以上は、古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。

 


所在地 世田谷区下馬2-11-6

真言宗智山派
 日輪山 薬王院 西澄寺

 玉川八十八ヶ所霊場52番


















 西澄寺には『武家屋敷門』があります。







所在地 世田谷区下馬2-11-6 (西澄寺)

 武家屋敷門 指定昭和39年(1964)4月28日
 現在の港区芝5丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。切妻造で、桁行六間の、中央に二間の両開き戸があり、その左右にそれぞれ片開きの潜戸と板壁を設けます。門の両端には、切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と、門内に面した側には式台が構えられています。
 この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1684~1688)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。蜂須賀家の中屋敷門として、25万石の大々名の家禄と家格に応じて建築されたものと考えられています。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。
 平成22年(2010)3月建設 東京都教育委員会

    Bukeyashiki-Mon
At the end of Taisho period,Nakayashiki-Mon (gate of feudal lord's semi-residence in Edo) belonging to Hachisuka family,Awanotokushima clan,was relocated to Saicho-ji and used as Sanmon (main gate at a Zen temple).This gate's name is Bukyashiki-Mon.It is a 6-bays wide gate with 2-bays wide entrance (casement door) in the centre and has gable roof.At both sides of the gate,there are 1-day wide wicket gates (single swing doors) and 2-bays wide outward pointing walls.Two guard stations with gable roof extend 1-bay forward on both seides of the gate.Each of them is 2-bays wide and 3-bays deep.They have a size equal to six Tatami mats and have Shikidai (entrance with low broad steps of timber) on the inside of the gatre.It is presumed that the gate was built an the end of Edo period and has a style defined by pent roof,stone walls and guard stations.Concernning the main gates of feudal lord's residenses,the Edo government imposd the style and the structure,depending on the feudal lords' class decided by wealth.Nakayashiki-Mon was constructed after the class of Hachisuka family was declared to be 250,000 koku(able to support 250,000 people).It is valuable as one of few remaining Bukeyashiki-Mon in Tokyo. 
 Tokyo Metropolitan Board of Education












所在地 世田谷区下馬4-27-26

 駒繁神社
祭神 大国主命 昔から「子の神」といわれ、出雲大社の分霊を守護神として祀る。天喜4年(1056)源頼義、義家父子が奥州征伐の際その武運を祈ったと伝えられている。
その後、文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原氏の征伐のおり、祖先義家が参拝したことをしのび、愛馬芦毛を境内の松の木につないで参拝したとのいい伝えから、明治以後駒繋神社と称するようになった。
 昭和54年(1979)3月 世田谷区教育委員会





御社号
 昔より「子の神」「子の明神」又は「駒繋神社」とも称えられていましが、明治以降は正式には「駒繋神社」と呼ばれるようになりました。しかし今までもなお昔の名称で「子の神」と広く呼ばれています。
・御祭神 
 御祭神は大国主命(御■■■)、大物主命、大国王命、大巳■■であります命は素盞鳴■■御子として古事記、日本書紀、出雲風土記等によれば因幡の白兎少彦命との国作りの話、国譲りの物語でよく知られている神様であります。大国主の御名の意味は「おゝ(大)な(土地)むち(霊)」即ち大きな土地の守護神、国土の主領神を意味しています。御祭神は慈愛深く人々に療病の方を教えられ、殖産興業畜産の奨励など一般国民の福利増進等に専念された御神徳あらたかな神様であります。
・御由緒及び此地の沿革 
 今から約900年程の昔、平安時代後期御冷泉天皇の天喜4年(1056)4月源義家公が父頼義公と共に朝廷の命を受け奥州に向う途中この土地を通過する際子の神に祈願参拝したと伝えられているから少なくもこれ以前に里人達によって出雲大社の御分霊をを勧請し守護神として祀った事はあきらかであります。降って文治5年(1189)7月源頼朝公が奥州征伐のため鎌倉を発し世田谷郷のこの地に至ったとき往時祖先義家公が当社に参拝したのを回想し、愛馬芦毛より降りて駒を繋いで(駒繋の松)を拝したこの事があって以来頼朝公が鎌倉に幕府を開き威勢の盛んなるに従って子の神を駒繋神社とも称するようになったと伝えられています。頼朝公はそれより乗馬し発進しようとしたが当社前より世田谷区上馬町までは一面のぬかるみであったので下馬しこの間を徒歩で渡りそのより先は乗馬(上馬)した。後世この故事にちなみ駒繋神社一帯を下馬と云い、乗馬した地を上馬と呼んで現在に至っています。以上は社伝、種々の著書を参照し記しました。
 尚、古老の伝承及び、江戸名所図絵、新編武蔵風土記、等によってこの地の沿革を記せば次の如くであります。文治年間頼朝公が奥州征伐の時荏原野より芦毛の馬を撰んで子の神に奉納しようとしてこの地に牽いたが躓いて倒れたので止めたと伝え、或はまた頼朝公がこの地に狩りに来た時愛馬が頗りに驚き誤って沢に落ち死んでしまった。そこで塚を築きこれを足毛塚と呼んだとも伝えられる。(この塚は神社の近くに現存している)これらを総合すると駒繋神社(子の神)は東京では名社の一つである事がよくわかります。




 駒繁神社には『大脇月甫歌碑』、『日露戦没記念碑』、『三代目 駒繁の松』、『下馬土地区割整理記念碑』、『「陸稲の藤蔵糯」説明板』があります。

所在地 世田谷区下馬4-27-26 (駒繁神社)

 陸稲の藤蔵糯
 日本人の主食として大切な米は水田でつくりますが、田の少ない地方では陸稲として畑で栽培し、畑作地帯の重要な作物で農家は、収量を少しでも多くするため熱心にh人種改良にとりくみ、東京の農家が作りだしたものも数多くあります。
 陸稲の糯米「藤蔵糯」は明治30年代はじめ、荏原郡駒沢村下馬引沢(現在の世田谷区下馬)の清水藤蔵氏が、それまで栽培していた尾張糯を改良してつくりだしたことから「藤蔵糯」と呼ばれました。
 田んぼで作る水稲に比べると粘りが弱い陸稲は、赤飯に用いられ、餅には水稲が使われていました。しかし、この「藤蔵糯」は、水稲に劣らぬおいしい餅をつくることができ、収量が多く、病気にも強いので、東京都の奨励栄品種にも採用されました。
 また、その後に品種改良された、「陸稲農林1号」をはじめ、優れた品種をうみだす母体ともなりました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業
 世田谷目黒農業協同組合

   THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO

         Tozo Mochi (Upland rice)
 Rice,the Japanese staple food, it grown in paddy field.In the regions where paddy field is scarce,houwever,it was grown in dry field and an important upland crop for the people.
 A variety of glutinous rice "Tozo Mochi" wad developed in early 1900s by Tozo Shimi zu of the present Komazawa,Setagaya ward and named after him.The "Tozo Mochi" could make tasty "Mochi" (rice cake) as good as paddy rice and,also,was high-yielding and hardy to deseases.It was adopted to a variety for recommendation by the City of Tokyo. 



所在地 世田谷区下馬4-27-26 (駒繁神社)

 大脇月甫歌碑
 大脇月甫(本名鋪郎 明治35年〔1902〕岐阜県生)先生は昭和3年(1928)国学院大学国文科に入学されたころ当神社の鳥居近くに移り住まれ、9月に歌誌「青虹」を創刊、昭和5年(1930)には「短歌心覚論」を誌上発表し、短歌結社青虹の基礎をこの地で確立されました。
  月かげの濃くさし くれば 散りのこる
   一葉もちらむ つめたき夜 なり      月甫
 昭和12年(1937)、選歌や編集に忙しい日々を送られていた先生が、このあたりの木々の葉も散り落ち、深々と月のある夜更け、何故か梢に散り残っている一葉を御覧になってのこの歌は、歌の道に徹する結社の成長と門下の訓育の為に心をひきしめ続けておられたお心にこそ初めて映った「散り残る一葉」だったのです。
 短歌一筋を貫かれた先生は昭和55年(1980)急性心筋梗塞で亡くなられまいたが、先生の提唱された「心覚の精神は一門に継承され、青虹は現在84巻を超え、まもなく通巻壱千号を迎えようとしています。
 平成22年(2010)10月 青虹


所在地 世田谷区下馬5-41

 葦毛塚あしげづか
源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。
また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏教をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。
いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚とよばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。
 昭和53年(1978)3月 世田谷区教育委員会











所在地 世田谷区砧2-10-11

浄土真宗本願寺派
 実相寺



所在地 世田谷区宮坂2-1-11

曹洞宗
 観谷山 常徳院









 


所在地 世田谷区経堂4-6

 菅刈橋跡
 江戸幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』には、今の世田谷区・目黒区・大田区にまたがる旧39ヶ村の区域と、飛地として品川区・三鷹市の旧各一村が、古代末期の「菅狩苅庄」に属していたと記されている。
 同書はさらに、現在のこのあたりが、庄名発祥の地で、菅刈谷の地名と、菅刈社・菅刈端があった。菅刈橋について「字横ねヨリ北ノ方ニアリ、悪水溝ニカカル橋ニシテ、漸ク石梁二枚ヲ渡セリ。」と述べている。
 区内旧大蔵村の出身で、江戸幕府の書物奉行の石井至穀著述『世田谷徴古録』の中にある菅刈谷・菅刈社・菅刈橋などの挿絵図と、国土地理院発行の明治・大正時代の地形図とを対照すると、風土記稿に言う菅刈橋は、この位置にあったt推定される。
 よってこの標示をして、往時をしのぶよすがとする。
 昭和60年(1985)3月 世田谷区教育委員会








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