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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(左側面)
右り 江戸道
(正面)

庚申塔
(右側面)
左り 世田ヶ谷四ッ谷道
(背面)
文政十丁亥年十一月吉日
  用賀村下講中
 年代
文政10年(1827)
 伝来 
 中国の道教では、人間の体内にいる三尸が庚申の夜に抜け出し、天帝にその人の罪過を告げるというので、庚申の夜には身を慎んで徹夜をせよと説いた。この守庚申の信仰は、日本に伝わり奈良・平安時代には宮廷を中心に広まったが、民間に浸透するにあたって仏教や神道の影響を受け変容した。江戸時代に亥は庚申堂が建てられ、庚申講が組織されるようになった。
 この庚申塔は用賀村下講中によって建立されたもので、道しるべの役割を持つものである。青山大山道が三軒茶屋で二手に分かれて用賀3丁目で再び合流する地点にあったものである。交通量の増加に伴って、一時真福寺境内に保管されていたが、同寺から当館へ寄贈されたものである。
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所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(左側面)
北 府中道
 (噴火カ)
□□13丙子年□月吉日
(正面)
庚申塔 東目黒道
 瀬田村
(右側面)
南 六かう(六郷)道
(背面)
造一基者庚申供養願    石居重良右ヱ門  矢藤佐右ヱ門
                  矢藤彦右ヱ門  新倉藤五良
叶為               角井市良右ヱ門  矢藤久右ヱ門
                  同 伝右ヱ門   星谷善太良
□□月□日□武州荏原郡    小泉茂右ヱ門  同 善右ヱ門
                  星谷三良左ヱ門  金子喜兵衛
 年代
文化13年(1816)
 伝来
 この庚申塔は、昭和30年代には旧瀬田町会事務所敷地内にあったが、昭和48年(1973)11月当館に寄贈されたものである。当初は現瀬田1丁目と上野毛3丁目との境になっている現駒沢通り付近にあったのではないかといわれている。




所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(左側面)
東ハ赤坂道
(正面)
庚申供養
西ハ大山道 講中八人
延享四丁卯十二月吉日
(右側面)
右 めぐろミち
(背面)
□道
 年代
延享4年(1747)
 伝来
 この庚申塔は、旧大山道に面して(駒沢2-17-1)あったが、昭和60年(1985)11月に当該地の加藤登喜一家から当館に寄託された。
 平成15年(2003)1月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 庚申塔
 銘文
(正面)
奉建立 庚申塚
享保十三年 申五月十日
 年代
享保13年(1728)
 伝来
 この供養塔の本尊は、病魔・病鬼を払い退くとされる六臂三眼・憤怒相の青面金剛で、三尸を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。小野亀善氏(三軒茶屋1-19-8)が、昭和20年(1945)頃某家よりもらい受け自宅に安置していたものである。昭和51年(1976)8月当館に寄贈された。当所の設置場所は不明。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 三界萬霊塔
 銘文
(左側面)
南 池上道
発願人 
当村 伝右衛門
(正面)
天明5巳年11月
三界萬霊等
西 さ加み(相模)道
(右側面)

北 高井戸宿通り
(背面)
東 江戸道
 年代
天明5年(1785)
 伝来
 三界とは、一切の衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊とは、この迷いの世界におけるすべての霊あるものという意味である。真宗以外の寺院で、施餓鬼など、広く無縁の有情を供養する際に用いられているが、この萬霊塔は、道しるべを兼ねている。
 旧玉川電車真中駅付近から北側に入った辺りにあったと伝えられているが不詳である。昭和42年(1967)に柴田元之助氏から寄贈を受けたものであるが、同氏は昭和初期に、当時の駒沢小学校校長横溝一清氏より寄贈されたと伝えている。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 山吉講冨士登拝記念碑
 富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として旧くから存在したが、庶民の間に冨士登拝の風習が盛んとなったのは富士の行者・食行身禄が現れて庶民の救済の教義を提唱した十八世紀以降のことである。食行身禄の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこからは多くの枝講が生まれることとなった。こうして、冨士講は十九世紀の初頭にその隆盛期を迎え、俗に「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げたのである。
 当冨士登拝記念碑は、三軒茶屋の冨士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が、講中の三十三回冨士登拝を記念して屋敷地の一角(現・太子堂4丁目438番地付近、茶沢通り路上)に建てたものである。また、その際、北口本宮冨士浅間神社(現、富士吉田市)の境内にも、もう1基記念碑を建てており、それも同所に現存している。
 堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の1つ田中屋を経営した旧家である。
 平成5年(1993)3月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 摺臼と搗臼・麦打ちコロ
銘文
 なし
 
伝来
 摺臼は、上臼と下臼を重ね合わせて上臼を回転させるものである。接合面に目を切り、その間に穀物などを通して製粉するものである。搗臼は、上部を刳り、これに穀物などを入れて杵で搗を脱穀や精白を行った。
 これらの臼は、火薬をつくるため焔硝(硝煙カリウム)の原料である硝石などの粉砕に用いたものと伝えられている。いずれも松原2丁目大庭信一氏から当館に寄贈されたものである。
 麦打ちコロは、牛などで牽いて麦を脱穀したものである。莚に刈った麦を敷き、昭和44年(1969)に祖師谷1丁目田中良平氏から当館に寄贈された。
 平成15年(2003)1月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 地蔵菩薩立像
 銘文
(左側面) 
武州荏原郡瀬田谷領
□内若林村
男同行弐拾六人
(正面)
宝暦6丙子年(1756)
念□講供養仏
8月2□日
(右側面)
是より南
いけがミみち
 年代
宝暦6年(1756)
 伝来
 この地蔵菩薩像は、宝暦6年(1756)に若葉や志村の念仏講の人々により建立された。念仏は西方浄土への往生の業として唱えられるもので、念仏講は、来世すなわち死後に対する信仰という面が強く、死後の世界の道案内者と信じられていた地蔵像を造立することが多い。この地蔵菩薩立像は、現在の常磐橋陸橋付近にあったが、環状7号線施設工事のおり、旧若林村の名主であった根岸家の敷地内に移され、昭和57年(1982)、現当主根岸武守氏により当館に寄贈された。


所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 道標
 銘文
(左側面)
右 登戸道
本願主  石田十右衛門
(正面)
左 延享3丙寅年
さがみ □吉日
  (梵字)大山道 世田谷上宿同行五十人
 年代
延享3年(1746)
 伝来
 この道標は、もと弦巻5-16-31の三叉路にあったが、交通量の増加に伴い、通行車両の振動や接触などで、下部は土中に埋没した状態になっていた。
 そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって、当館へ移設されたものである。
 なおお、道標のあった場所には、そのよすがを留めるtめに同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。
 「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。」
財団法人  大場代官屋敷保存会
世田谷上町町会
 平成14年(2002)11月 世田谷区教育委員会








所在地 世田谷区世田谷1-29-18 (郷土資料館)

 標石
 銘文(正面) 
品川領用水御普請所
          
保7申歳2月
 年代      
天保7年(1836)
 伝来
 寛文2年(1662)、熊本藩主細川越中守綱利の弟・若狭守利重が品川領戸越に抱屋敷を取得したが、その邸内の泉池用に、野川村新川より仙川養水を分水して戸越上水を開削した。
 仙川養水は境村(現武蔵野市)から玉川上水を分水したものであった。細川家ではこれを寛文6年(1666)に廃止したが、早損に苦しんでいた品川領宿村の農民がこの古堀を用水として賜りたいと願い出て、翌寛文7年(1667)幕府の許可を得た。灌漑用水としては細小だったため、寛文9年(1669)幕府は水路の拡張工事を行った。
 品川用水は、本区だけでも烏山・粕谷・廻沢・船橋・世田谷・弦巻・世田谷新町・馬引沢の旧八か村を流れ、全長七里(約28キロメートル)にも及ぶものであった。上流で数ヵ所の分水口が設けられたことなどから、品川領宿村までの引水量は充分ではなく、用水をめぐる争いが絶えなかった。


所在地 世田谷区弦巻3-29-6

曹洞宗
 鶴松山 実相院
 寺伝によれば、当寺の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衛佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。
 天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は城を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。
 徳川家康が江戸入府後、氏麻は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長8年(1603)示寂した。
 「新編武蔵国風土記稿」には、「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と、記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌んみ本堂に安置せらる。
 慶安元年(1648)、家光より朱印地十石二斗二升を賜っている。
 昭和61年(1986)11月 世田谷区教育委員会












 北門

 実相院には『高橋是清翁之鬚墓』、『武蔵の國 世田谷の史蹟碑』があります。


所在地 世田谷区弦巻3-29-6 (実相院)

 武蔵の國 世田谷の史蹟碑
 当寺は鶴松と号し曹洞派の禅寺にして本尊に薬師如来を安置する 天正元年(1573)世田谷城主吉良第八代三兵衛督従四位下源氏朝(慶長8年〔1603〕9月63歿)の創立天永琳達禅師(元和2年〔1616〕8月11日寂)を開山とする
 吉良家は第五十六代清和天皇の末裔八幡太郎義家の子孫で建武元年(1334)世田谷に居城世田谷御所と称し禄高拾八萬石の大名にして天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐により滅亡した
 実相院は勝光禅院に属し吉良家滅亡と共に衰えたその後徳川幕府より御朱印地として実相院領本村(現弦巻3丁目)及び八幡脇(現松■小学校一帯)実相院丸(現世田谷2丁目ボロ市■■)の地と禄高拾石二斗二升を賜った(慶安元年〔1648〕7月17日代) 慶安4年(1868)7月御朱印を返還し現在に至る
 境内に氏朝夫妻の塚のこる



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