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東京都世田谷区の歴史
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所在地 世田谷区船橋4-40-17

 神明神社
一、祭神
天照皇大神
 相殿祭神
倉稲魂命 天児屋根命
一、由緒
当社創立年代及び古代由緒沿革等は不詳ではあるが、境内には天保10年(1839)建立の石鳥居があり、古代より神明さまとして船橋はもとより近隣の鎮守として、広く信仰を集めている。明治6年(1873)に村社に列せられ、明治41年(1908)には会計法指定神社となる。元社殿は、大正15年(1926)3月に社殿改築工事が行われ、木造トタン葺19・13坪が完成す。昭和40年(1965)8月社殿屋根を銅板葺に併せて社務所・神楽殿木造瓦葺49.32坪が完成す。それより幾年もの間、船橋氏子の心のより所として慕われて来たが、平成2年(1990)3月19日未明に伊過激派ゲリラの時限発火装置により放火され全焼す。同平成2年(1909)6月御社殿復興建設委員会を発足し、多くの奉賛をもって平成4年(1992)7月2日御社殿(鉄筋コンクリート神明造銅板葺28.34坪) 末社(六つ宮) 境内整備を竣工完了 正遷座祭執行 同平成4年(1992)9月13日竣工奉祝祭を執行す。
一、祭日
例祭  9月最終日曜   歳旦祭  1月1日
大祓  6月30日      正五九  5月1日
大祓  12がつ30日   正五九    9月1日
臨時祭 時機により行う
一、境内地
992坪33
一、境内社(六宮社) 祭神
厳嶋社     市杵嶋姫命
天神社     菅原大神
御嶽社     日本武尊
三峯社     三峯大神
稲荷社     倉稲魂命
津島天王社  須佐男命
 神明神社社務所





 
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所在地 世田谷区太子堂4-30

 太子堂道祖神
 子どもは、これから私たちのまち「太子堂」を担っていく重要な存在です。
 私たちは、日々子どもたちの健全育成を願い、活動を行っています。しかし、昨今は青少年=中学生・高校生による犯罪が毎日ニュースをにぎわせています。それは、子どもたちが、不安で過度のストレスのある状況におかれているのではないかと考えます。 
 「道祖神」は、村に悪いものが入ってくるのをさえぎる護りの神として、村の辻として祀られたといわれています。そこには、五穀豊穣や子孫繁栄、縁結びなどの願いがかけられ、「村の守り神」として伝えられてきました。
 私たちのまち「太子堂」でも道祖神があれば、そこが子どもたちだけでなっく、地域全体のやすらぎの場となるでしょう。
 その結果、「太子堂」がより発展し、子どもたちも健やかに育っていくものと信じております。



所在地 世田谷区北沢2-36-15

曹洞宗
 大雄山 真龍寺
 大雄山真龍寺と言い、曹洞宗に属する寺である。
 本尊は、十一面観世音。守本尊として道了薩埵が祀られている。(秘仏)
 道了薩埵は、神奈川県足柄市にある、曹洞宗最乗寺の守護神で、開山了庵慧明和尚の弟子となって創建に尽力し、後に当時を守護することを誓って天狗となり、白狐に乗って飛び去ったと伝えられている。
 当山の御神体は、明治初年に作られ関東一円を巡って後、昭和4年(1929)に当所に安置されたという。
 の、高さ3メートル・幅2メートルの天狗面は下北天狗祭り実行委員会からの寄贈によるものである。
 現在当寺は、東京信竜講を組織して大雄山最乗寺に参拝する外、節分会・清浄鎮火祭・mたまおくりなどの諸行事を行っている。
 特に「しもきた天狗まつり」には、道中に大天狗・小天狗・裃姿の年男など百名が出て、門前のにぎわいを見せている。
 平成元年(1989)9月 世田谷区教育委員会








 真龍寺には『大天狗』があります。


所在地 世田谷区北沢2-36-15 (真龍寺)

 大天狗
天狗とは神通力を持ち十一面観音の一面として姿を変え現在の苦を救うと伝えられている
一、鼻の高いのは商売繁昌を伸し
一、葉ウチワを持つのは魔心を払い四界平等を意味し
一、一本歯の下駄をはくはどんな苦難にも負けず踏み越え進む勇気象徴したものである
 下北沢道了尊 真龍寺








所在地 世田谷区宮坂1-26-3

 世田谷八幡宮
 御祭神
応神天皇(誉田別命) 仲哀天皇 神功皇后
 鎮座地
東京都世田谷区宮坂1丁目26番3号
 

  御由緒と歴史
 世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第73代堀河天皇の寛治5年(1091)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦戦を重ねて清原衡を金沢柵んて攻め平定した後三年の役(1087~1094)の頃です。
 義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の御加護に依るものと深く感謝し、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申し上げ盛大なる勧請報賽・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事は有名であり、現在でも奉納神事として伝えられています。
 
 その後の八幡様は当社に残る棟札によると「当社 八幡宮建立大壇那源朝臣頼貞 天文15年(1546)丙午8月20日建立、12月20日葵卯御遷宮」とあり、約四百数十年前の第105代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(ニ尺三寸)一振を寄進したと云われています。
 このように当社八幡様は吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家tる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の関東討伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んでしまいました。
 その翌年の天正19年(1591)に江戸城に入城した徳川家康も、源氏の出身であり、その氏神八幡神を崇敬し、当社に社領として十一石を寄進しました。以来徳川代々の将軍派、朱印地として社領十一石を寄進する習わしとなりました。
 明治維新後の八幡様は、明治5年(1872)に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元されました。
 昭和39年(1964)5月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されています。
 

 
 
 
















 世田谷八幡宮には『厳島神社』、『力石』、『日露戦没記念碑』、『石碑』があります。


所在地 世田谷区経堂1-22-1

曹洞宗
 経堂山 福昌寺









 福昌寺には『菅刈庚申塔』があります。


所在地 世田谷区桜1-26-35

曹洞宗
 延命山 勝光院
 勝光院は初め金谿山龍鳳寺といい、建武2年(1335)吉良氏の創建になると伝えられる。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。同天正10年(1582)客殿(旧本堂)の建立を機に、家臣関加賀守が虚空蔵菩薩像を寄進した。
 同天正19年(1591)、徳川家康から寺領30万石を与えられた。なお元文2年(1737)には、山号を延命山に改めている。
 当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、清水寺式の珍しい千住観世音菩薩坐像がある。この像は、もと城山(世田谷城址)にあった塔頭の千手院の本尊であった。書院は文政6年(1823)の再建で、区有形文化財に指定されている。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣広戸備後正之の墓がある。
 平成4年(1992)3月 世田谷区教育委員会
 

 





 勝光院には『吉良氏墓所』、『勝光院の梵鐘』があります。


所在地 世田谷区桜1-26-35 (勝光院)

 吉良氏墓所   指定 平成13年(2001)11月28日
 吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀・頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。
 関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村(現千葉県)に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。
 勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全二十八基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。
 平成13年(2001)12月 世田谷区教育委員会


所在地 世田谷区桜1-26-35 (勝光院)

 勝光院の梵鐘
 本梵鐘は、元禄11年(1698)、当山第十三世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝われる梵鐘としては、2番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年(1977)、当寺に返還され、今日に至っている。
 梵鐘の形姿は、優美で均整がとれ、各所に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は、八王子に本拠をおき、江戸時代をつううじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。
 本梵鐘は、吉高の力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えたうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の『世田谷弐拾ヶ村御帳』(元禄■年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この時期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。
 
 近世世田谷区歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえにも、本梵鐘は貴重な遺品である。
 平成1■年12月 世田谷区教育委員会









所在地 世田谷区上用賀2-1-1

  馬事公苑
 馬事公苑は、騎手の養成、馬事普及および馬術振興のため、昭和15年(1940)9月29日に開苑いたしました。
 当時の苑訓として次の三訓が掲げられました。
至誠を以って騎道作興すべし
努力を以って百錬自得すべし
和協を以って人馬を一如たるべし
 この苑訓は、時が移り人が代わっても、馬を愛し馬術を志す人の心に、脈々と受け継がれております。
 開苑50周年を記念して、正門を改修すると同時に、ここに記念碑として設置いたしました。
 平成2年(1990)4月

ホームページ ⇒ http://www.jra.go.jp/bajikouen/











 馬事公苑には『「馬事公苑の由来と苑訓」碑』、『オリンピック馬術競技優勝記念碑』、『愛馬碑』、『行幸啓記念碑』、『馬の親子像』、『馬像』、『馬頭観音碑』があります。

 


所在地 世田谷区上用賀2-1-1 (馬事公苑)

オリンピック馬術競技優勝記念碑に用いてある石垣は、堅固な日本城郭の石畳にかたどり、穴太流の野づら積という古い様式によって築かれている。
石は江戸城の用材で、昭和40年(1965)日本中央競馬会本部の新館工事の際、地下4メートル余のところから発見された。
そこは江戸城の外郭の南側虎の門の東にあたり、寛永13年(1636)3代将軍徳川家光が、多くの大名の助役によって工事をしたところである。
石垣の所々の石面に見られる紋章や符号は石材を供出したり、石垣を築いたりした大名が、その責任を明らかにするために彫りつけたそれぞれの家のしるしである。
ここにある■は豊後国(大分県)臼杵城主稲葉一通、■は日向国(宮崎県)延岡城主有馬直純、■は豊後国佐伯城主毛利高直の記号である。

  第18回オリンピック競技大会
  THE GAMES OF THE XVⅢ OLYMPIAD
   EQUESTRIAN SPORTS 馬術競技
 WINNER  優勝者
 DRESSAGE GRAND PRIX 大■典馬場馬術
 IND 個人
 CHAMMARTIN.H.IWAOERMANNI-SWITZ
 TEAM 団体 GERMANY
  EOLDT.H(REMUS)   KLIMKE.R.(ZUX)
 NECKERMANN.J(ANTCINETTE)














所在地 世田谷区上用賀2-1-1 (馬事公苑)

 馬像
1990年9月、馬事公苑は開苑50周年を迎えその記念事業の一つとして、この馬像を造りました。
この馬像は馬術の振興と馬事の普及を担う当苑の新たな象徴であり、また当苑が我が国の馬術界の期待に応え更なる発展を期して”前進”をテーマとして馬術家でもある西村修一氏に依頼し製作しました。
台座に記された言葉は「前進、前進、常に前進!」と言う意味で、馬術の基本であり、19世紀フランスで活躍された著名な馬術家J.フィルス氏の言葉です。
 1991年12月 日本中央競馬会 馬事公苑







所在地 世田谷区上用賀2-1-1 (馬事公苑)

 馬頭観音碑
 この馬頭観音の石碑は、競走馬総合研究所に奉られていたものでありますあ、移転の為にこの場所に移設したものであります。
 平成10年(1998)10月



所在地 世田谷区下馬4-9-4 

世田谷山 観音寺(通称 世田谷観音)

 江戸三十三観音 第32番札所
昭和26年(1951)睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜浅草寺に請い、開眼の法を修したものである。本尊は、聖観世音菩薩で、ほかに特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は、国のため若き命を捧げた特攻隊員4千6百15柱の英霊の安息所とし、また、それぞれの堂には、国指定重要文化財の不動明王ならびに八大童子像が安置され、ほかに都指定有形文化財の五百羅漢坐像が安置されている。
 昭和54年(1979)3月 世田谷区教育委員会







 世田谷観音 観音寺には『仁王門』、『仁王像』、『特攻観音堂(本堂)』、『世田谷観音本坊(旧小田原藩代官屋敷)(』、『門標』、『阿弥陀堂』、『鐘楼堂』、『不動明王』、『夢違観音』、『文殊菩薩』、『馬頭観音・水子観音・八方睨み達磨』、『地蔵菩薩』、『開山塔』、『あゝ特攻勇士之像』、『三鈷の松』、『神州不滅特別攻撃隊之碑』、『世界平和の礎碑』、『南無観世音の碑』、『特攻平和観音石碑』、『多宝塔』、『鬱金の桜』、『特別攻撃隊の頌碑』、『天山隊之碑』があります。


所在地 世田谷区下馬4-9-4 (世田谷観音 観音寺)

 阿弥陀堂
(戌・亥歳の守本尊)
御真言 おん あみりた ていぜいから うん

 五百羅漢
悟りを極めた高僧。都有形文化財(九体)

 韋駄天
捷疾鬼(天邪鬼)が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを直ちに追って取り戻したということから、足の早い神として知られています。お馴染みの韋駄天走りの語源になっています。スポーツの神。足腰を丈夫にしてくれます。


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